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村方指揮法教室と齋藤指揮法について過去に書かれたブログのリメイク版です

しきほうきょうしつ

10.拍子感について

 音楽には大雑把に言って2拍子と3拍子があります。4拍子と2拍子、または、3拍子と6拍子は厳密に言えば違うものなのですが、(だからこそ指揮の図形の上でも違いが現れてくる)ここではとりあえず拍子の最小単位である2拍子と3拍子のみ取り上げます。

 拍子感、というものは拍子がそれ自体の中に持っている個性を表します。たとえばマーチでは「左右左右・・・」と足踏みをしますよね。すると必ず1拍目が強く(重く)なりますし、2拍目は1拍目の反動、あるいは1拍目のあとに続いて出てくる為に弱く(軽く)なります。これが2拍子の拍子感と呼ばれるものです。これに対して3拍子ではワルツのリズム=強・弱・弱 が基本になります。と、ここまでは小中学校の音楽の授業の内容でした。ではそれが指揮においてどう表現されるでしょう。

 それは単純なことで、強い(重い)拍は大きく振り、弱い(軽い)拍は小さく振れば良いのです。ですから、図を見て分かるとおり、2拍子の1拍目と2拍目では、1拍目の方が移動している距離も長くなっているのです。同じ時間の中でより長い距離を移動するということは、すなわちそれだけ早いスピードを伴って移動するということでもあるので、この「動きの大きさ」と「動くスピード」に明快な差をつけることによって、どちらがより重要な拍になっているかを一目瞭然に示すことができますし、さらには音楽全体の躍動感を高めることにもなります。

ワルツ打法について
 さて、上に描いたようなごくオーソドックスな振り方以外に、俗に「ひとつ振り」と呼ばれるものがあります。これは、たとえば4分の2拍子の速い曲において、一小節に2回往復運動するのがせわしなくみえるので、一つの動きで1小節(2拍分)を表してしまおうというものです。もっとこの事を簡単に言ってしまえば、同じテンポだったときの2分の2拍子と4分の4拍子の違い、とも言えます。(前者はゆったりとした、後者はきびきびとした印象になります。)このような指揮の省略が3拍子で行われた場合を特に「ワルツ打法」と呼びます。次の図を見てください(指揮法教程(旧)より)。

ワルツ打法

 この図は指揮の腕の上下運動を円運動に例えて表したものです。左側の2拍子では出発点が一番スピードが速く、頂上が一番遅く、一瞬止まったようになります。指揮というのはもともとが「モノが自由落下しているように見せる」事を意図していますから、さながら弾むボールのように、この落下点と頂上の間を加速減速して動かすわけです。動かす、というよりも腕の重さでそのまま自由に落下させ、基本位置(=腕が90度の角度になるところ)を地面に見たてて自然にまた反動し空中へとモノを投げ多様に戻っていき頂点に達する、という運動が無意識のうちに勝手に起こっている、という気分です。

 ところが、3拍子をこの動きに当てはめると、2拍子と違う点が出てきます。新たにもう一つ拍が加わってくるわけです。そうしますと、パチンコ玉を打ち出していままではそれが戻ってくる間に1拍が入ればよかったものが2拍入れなければならないわけですから、当然打ち出す最初のエネルギーを3割り増しにしないと釣り合いが取れなくなってきます。ゆえに3拍子の1拍目は2拍子の1拍目にたいしてより重くたっぷりと振らなければなりませんから当然動きの図形の大きさもより大きく、スピードも速くなってくるわけです。また、頂上を通り過ぎたところが一番遅いところ、つまり3拍目となります。それゆえに3拍目から1拍目に移るときには、2拍子の2拍目から1拍目への間よりも短い間に急激な加速が必要になります。さらに、3拍子の1拍目は2拍子の1拍目より重くなければ付随して出てくる2拍分を支えることができないので、ただでさえ急激な加速が必要なのです。そのため、この加速時に手の甲が内側を向くようにひねり、さらに1拍目を叩くと同時に元に戻すことで、より拍を強調してみせる技術もあり、これを「捻り(ひねり)叩き」と呼びます。

 このことは変拍子の曲を振る場合に非常に役立ちます。村方指揮法教室では、一つ振りをしたときの2拍子と3拍子の違いをマスターするために、バルトークのピアノ曲集「ミクロコスモス第4巻~第6巻」の中から数曲を課題として練習するようになっています。8分の5拍子や8分の7拍子といった変拍子もじつは「2+3」や「2+2+3」といった2拍子と3拍子の組み合わせによって構成されているので、こういう曲もびびらないで2と3さんをしっかり区別して振れば拍子感のよい躍動した音楽になるはずです。その際の注意点としては、この区別をはっきりと明確につけることです。ポイントとしては2拍子にたいして3拍子は図形を大きくとること。そしてとりわけ、それぞれの振りの出発点となる叩きが2の叩きなのか3の叩きなのかを意識して重さを変えていくことが大切です。

 自分の描く図形の中にいくつの拍を入れていくのか、によって図形を描く際のスピードや大きさ、位置を使い分けることによってほんとうに奏者を「指揮」できるようになるはずです。ですから、指揮者は楽譜の中からその曲の持っているリズムの個性を見出して、どの拍が重要なのか、そして、その拍と関連を持つ拍(たとえば強い拍のあとに引っ張られてついてくる拍もあれば、強い拍を出すきっかけとなる拍も存在します)はどれなのか、といったことを合奏の前にあらかじめ知っておかなくてはなりません。たとえば同じ4分の4拍子でも

1  2  3  4
|♪♪|♪♪|♪♪|♪♪|~

 では一拍のなかに2つの♪を感じて振るために、動きはシンプルに、一番遅いところが裏拍の♪のところに来るようにすれば良いですがこれが3連符4つの組み合わせ(あるいは8分の12拍子)になれば、

1   2   3   4
|♪♪♪|♪♪♪|♪♪♪|♪♪♪|~

 1拍の中に3つの♪を抱えなければならない分だけ、各拍は高いエネルギーを必要とします。また、♪♪♪←この最後の3つめが一番遅くなる(一瞬止まる)拍ですので、この拍をきちんと聴いてから次の拍へと動き始めることで、焦りのないゆったりとした指揮をすることができます。どうしてもワルツのリズムは日本人の潜在意識の中にないもののようなので(本当かどうかは分かりませんが)この3拍子の優雅さを決めるポイントである「3拍目を待って次の動作に入る」ということだけでも守れば奏者は自然に指揮についてくるようになります。そして同時に音楽に優雅さ、ゆとりが生まれるでしょう。

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11.合奏運営法(私の経験から・・・)

 指揮と並んで、いやそれ以上に重要なのが合奏のテクニックです。これは、実際に大人数のオーケストラ、吹奏楽、合唱などの前に立ったとき、ある一定の時間、そこにいる人たちを自分のほうにひきつけておくためのもので、プレゼンテーションの技術に近いものがあります。アマチュアの楽団を指揮する上で、その練習に参加した人々がいかにその練習に出て「よかった」と思えるかは死活問題です。練習前と練習後で結果として同じ物が達成されたとしても、そこへ行くまでの過程を有意義なものにするか、あるいは単なる「目的のための手段」にしてしまうかは指揮者のアプローチの問題にかかっています。それだけでなく、奏者が気持ちよく合奏できるような環境をつくることは、合奏の場において指揮者が率先して配慮すべきことだと思います。奏者の側に悪いストレスを与えないための合奏の方法について、あるいはさらにすすんで、充実した合奏の時間を指揮者と奏者が共有できるような、そのための方法について・・・。個人的な経験からではありますが、まとめておきたいと思います。お役に立てれば幸いです。

①指示出しについて

 あまり早口でないほうが良いのは明白なことです。重要な指示(どこからはじめるか、など)ははっきり全体に通る声で。言葉に詰まってしまうのは別にかまいません。奏者はちゃんと待っていてくれます。むしろ、なにか言わなきゃ言わなきゃということで焦るのは逆効果です。何か指示を与えるときには楽団の中に何人かキーパーソンを作っておくと便利ですね。これは特に学生相手の場合ですけれども、ちょっとした冗談が許される人・気軽にいろいろ言い合える人がいれば、彼を名指しで注意しつつ、彼以外の人に注意を促すことができます (1)

それから合奏中に言わないほうが良い言葉。ついつい使ってしまいがちな言葉ですが僕は好みません。

  • 「せーのっ!」(練習番号Dからはじめます・・・といったあとでみんなで音を出すような場合)
    これはなにがいけないかというと、「せー」がいけません。「えー」という音は口の中を狭くして出す母音です。管楽器の奏者は息を十分おなかにいれないとふけません。そのときに「えー」という母音は耳にした感じとして、息を吸うという行動の邪魔になります。アインザッツをあわせて「一斉に音をちょうだい!」っと言うような時、僕は「どーぞっ!」ということにしています。「お」の母音がのどを広げる作用を持っているように思うので (2)。今までやった感じとしてはそれが一番奏者にとって自然にブレスがとれるように感じます。
  • もう一度おねがいします(同じことを繰り返すとき)
    何も言わずにもう一度、というのは徒労感を煽るんでやめましょう。ただし「うーん。僕のイメージとちょっとちがうんだよね。もう一度やってみてくれる?」のように、奏者に「考えさせる」という意図があるのなら良いと思います。とにかく「なにがしたいのか」分からないのに繰り返すのは合奏が迷走する元になるのでこの言葉を使うときは慎重になりましょう。さらに言えば、時々「もう一回だけやりましょう」という人がいますが、そういったらほんとにその一回で終わりにしましょうね(笑)。
  • 次までにやってきてください
    これは言う相手にもよります。アマチュアでは、とても合奏でどうにもならないような技術的な問題を抱えた奏者が少なからずいます。そういった場合にこの言葉を奏者に対して投げかけるのは酷ではないでしょうか?もちろん明らかな怠慢に対しての注意は必要でしょうけれどもね。合奏で個人の技術的な向上ははっきりいってほとんど見込めません。そもそも合奏って、「次回までにやってどうにかなる」ものではなく、その一回で確実に良くできることのために行われるべきで、指揮者の使命とはそういうことに対してどんどん注意を与えて楽団の一体感を高め、音楽の流れを作り出すことであると思うのです。あ、あと「~しておいてください」という物言いが私は指揮者として発言する場合に最も避けるべきことではないかと思います。指揮者は自分の目的のために楽団の頂点に立って君臨しているのではないはずです。共に音楽を作る、という姿勢であれば「~しておいてください」などという他人事のような言い方はできないのではないでしょうか?もちろん全くつかうな、とは言いません。ただ、ちょっとした語尾のなかにもその指揮者のスタンスが出てしまうことを、指揮者は知っておかなければなりません。

②指揮をしないで聴いてみる

 指揮について注意を向けつつ、流れている音楽に耳を澄ますのはやはり慣れとスコアの勉強が必要不可欠です。どちらもなかなかすぐに身につくものではありません。時々指揮をしないで「1と2とどーぞっ」(⇒4拍子のとき僕はこのようにテンポをだして奏者に入ってきてもらいます)と口で言ってそのまま聴いているのもテです。奏者がその音楽をどう感じてひいているのかということ、あるいは技術的な問題でうまくいかないところが浮き彫りになって来るでしょう。たとえばクレッシェンドの頂点が頂点が早すぎる遅すぎる(ディミヌエンドが早すぎる遅すぎる)強拍と弱拍の関係、個々のパート感の音の処理の違い・・・など。自分の指揮に対してどうついてきているかを、指揮のあるとき、ないときで聴き比べるのも良いかも知れません。欲を言えば聴いている間に曲の表情を視線や顔であらわせたら良いかな、と思います。ボーっと前に座っているだけでは奏者は刺激されませんから。

③歌う

 歌う指揮者はたくさんいます。時々CDのなかに指揮者の歌がはいってしまっていることもありますね。歌うのは奏者との距離を縮めるという点で有意義なことだとは思いますが、自分の頭のなかにあるCDがくるくる回転していて、それを聴いているだけ。目の前の音楽を聴いていないということにもなるので注意が必要かと思います。奏者を鼓舞する目的での歌の使用は良いと思います。歌ですが子音を積極的に使ってニュアンスを伝えられたら良いと思います。ただ「ア~」ってうたうのではなく「ザ」「タ」「ダ」あたりの子音をつかうと音色のニュアンスが出ます。自分が管楽器出身ということもありますが、歌うときにもタンギングを気にしています。「ラン」というやわらかいタンギングか「タン」というきついタンギングか・・・。さらに自分の言っていることと歌ったことにギャップがあってはいけません。奏者が混乱してしまいますから。よくいるんですよね。「はっきりください、ララララ・・・ってかんじで」とか言う人が。

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12.演奏会を開くということ【レッスン後記②】

 指揮法とは直接に関係がないのですが、ここでは演奏会を開くことについて僕の思うところを書いてみようと思います。演奏会とは、文字通り演奏する場であります。練習を重ねた成果を発表する場所です。しかし、演奏だけが演奏会ではないはずです。会場の雰囲気、音響、受付の対応、司会、アナウンス、演出・・・そういったことすべてが、演奏会全体の印象を決定付けます。逆に言えば、そういったところでも、演奏会を開く側は、お客さんに対して自分たちの思いを表現出来るのです。しかるに、そういったところで致命的なミスをしている楽団が少なくありません。何の脈絡のない選曲や不慣れな司会、中途半端な休憩時間などは、せっかく聴きに来てくれたお客さんに対して失礼なほどです。身内同士でほめあう馴れ合いの演奏会ならそれでもよかろうと思いますが、そういう演奏会は開くだけムダだと僕は思っています。せっかく大きなホールをそれなりの使用料金払って借りて、チラシを何枚も刷って宣伝をするわけですから、そこで来てくれたお客さんに、絶対に次回も来て貰えるようなセンスある素敵な演奏会をしようと努めなければなりません。それは、アマチュアだろうがプロだろうが、演奏会を催す者としての最低限の礼儀だと思うのです。

 プログラムについて考えてみましょう。大学の楽団にありがちなのは、いかにも「人気投票で決めました」といった選曲です。こういうものは、曲同士のつながりがまったくなく、演奏会全体を通して聴いた時の一種の「ストーリー」が何もありません。お遊びに付き合わされる観客は良い迷惑です。それでも演奏がよければまだ救われますが、そういうことは稀です。打楽器は叩きすぎて全体を壊すし、金管楽器はフォルテしか出来ない(ピアノの部分ではとたんに音を外したり雰囲気を壊すようなことをしでかす)。弦楽器は半分が弾けて居ないのではないか、というような散々な演奏会もありがちです。高校の吹奏楽になると、今度は「最近コンクールではやっている曲」が曲の構成を無視したカットでずたずたにされて演奏されたりします。一体なにを伝えたいのか?プログラムだけでうーん、と思ってしまう演奏会もたくさんあります。思うに、演奏がよければ良いんだ、という開き直った考えで演奏しても良い演奏にはならないのではないでしょうか。演奏会全体に、ピシッと一本、筋が通っていて、そういうことが演奏にも演出にも、ひいてはマネジメントにもよい影響を与えると思うのです。この筋が通っているか通っていないかは、たとえばプログラムを開いて、中の曲目紹介などを一読しただけで分かってしまうこともあります。

 確かに、そこまでの「筋」を通した演奏会をするのは並大抵なことではありません。準備段階から綿密な打ち合わせが必要でしょうし、「これはふさわしくない」と思ったら、勇気を持って切り捨てる覚悟も必要でしょう。特に選曲に関しては、この曲が「やりたい」「やりたくない」という感情論も入ってきて大変だと思います。そういったすべてのことを秩序立てて解決していく責任の一切は、そのステージを指揮する指揮者にあると僕は考えています。プロではない、いや、逆にアマチュアだからこそ、演奏会をどういうものにしたいのか、という明確な方向性を演奏者全体に示し、安易な妥協を避けて、「どうしてそういうものにしたいか」を説明し続ける義務が、指揮者にはあるはずです。演奏面だけでなく、すべてにおいて指揮者は番人であるべきだ、ということ。これは、なかなか辛いことですが、そういう姿勢を貫くことによって、奏者に演奏会に対するポリシーのようなものが浸透すれば良いなあ、と、思うのです。また、そういうことがどうしてもその楽団で実現できないのならば、指揮者はその楽団から身を引くべきでしょう。

 かなり偉そうなことを書きましたが、以上偽らざる僕自身の考えです。「自己満足で良いじゃん」とは言いますが、他者を満足させようと努めなければ、自己満足にも到達しないでしょう。演奏の技術的な問題で、どうしてもアマチュアはハンディを負っています。それは仕方がないこととして、ではその部分を精神的に乗り越えようとしなければ、感動は生まれないでしょう。「感動させてやろう」というような押し付けがましい演奏に陥ってはいけませんが、センスの良い演奏会、配慮が行き届いた演奏会、そういう演奏会を続ければ必ずファンが増えていくはずです。演奏会を開いても来るのは身内ばかりで・・・というのでは、やはり寂しいものです。もっと開かれた、より多くの人と音楽を共有する場としての演奏会が出来たら、それこそ文字通り感激してしまうことでしょう。大事なのは、そのために手を抜いてはいけない、ということ。そして指揮者は演奏以上に演奏会全体の責任者である、ということです。
(2003.3.6-記)

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13.我が強敵、モーツァルト【レッスン後記③】

 今日でモーツァルトの幻想曲(K.475)のレッスンが2回目でした。前回割とすらすら行ったにもかかわらず、今回はダメ出しされてばかりで、全く進みませんでした。受験のために指揮法のレッスンをしばらくお休みした後の最初の課題がモーツァルトだったというのは、かなりきつかったのかも知れません。ただでさえモーツァルトは難しいのに、今の自分は頭の中がまだちゃんとした指揮モードになっていない感じで、指摘される注意などを頭で理解することすら時間がかかっているような感じです。

 まず注意されるのが、図形の大きさ、そして形のいびつさ。3月に大編成の吹奏楽を指揮したこともあって、純粋に自分の指揮の運動について細かく考えるクセが抜けているようです。「モーツァルトは端正に」と何度も何度も言われてしまいます。小さな動きで奏者に歌わせることのできる・・・。そんな理想とは裏腹に、動きが小さくなる→動かす距離が短くなる→その短い距離を緩やかに動くということに対して我慢しきれずに、あせったり、あるいはテンポを一定に保てなくなる……という悪循環で、とても歌わせるどころではありません。自分が感じている曲の流れと、自分の手の動き、手の先につながる棒の軌跡が一致せず、無駄に動いたり、また逆にテンポをただ刻むだけの無表情な指揮になってしまいます。音が少ないのみならず、休符が多い曲だけに、その「音が鳴っていない瞬間」をどう演奏するか、といったことも非常に重要なのですが、それも、頭で理解しながら手が言うことを聞きません。もう一呼吸待ってから次へと入りたいところを、一瞬棒が先に点を出してしまうのです。

 「意味なく棒を振り回しているのは指揮ではない」と、最後には静かに、しかししっかりと怒られてしまいました。その部分の伴奏がアルペジオなのか?刻みなのか?そういったことまで考慮して打点の重みを変化させ、打点から打点への移動経路を微妙に長く取ったり短くとったりして調節していくこと。そういう「意識的に、感じた音楽を自分の棒に乗せる」という変換作業を「無意識的に」行えるようになることが、指揮のレッスンを通して得ていくひとつの大きな技術なのではないかと思います。

 それはモーツァルトに限りません。自分の熱い思いをただ自分の中で燃焼させているだけでは何も残りません。炎というのは、手で触って形を確かめることができないもの。形の無い熱い炎を、凍てついた氷の中に瞬間冷却して封じ込め、形に残そうとすること。これが指揮者に課せられた最大の難問ではないでしょうか?それは物理的に無理なことでありながら、それに近い状態が現に存在することを、数は少ないけれども僕自身もいくつかの演奏会で経験しています。そこまでの道のりは長く長く長く・・・。まったく音楽というのは深いものです。

 今日のレッスン。終わったときにはあまりの悔しさに泣きそうでした。久々に指揮のレッスンに戻ってきてみて、自分の至らなさと先生の圧倒的な見本を前にしては、結局何を今まで習ってきたんだ、という自分への呵責ばかりで耐え切れないのです。また、先生の指揮をじっと見ていても、気付いたことが気付いたそばから自分の中に残ることなく消えていってしまうような感覚で、本当に胸が苦しかった。そればかりでなく、先日の演奏会でこんなに無知で指揮のなんたるかも分からない自分が70人編成の吹奏楽団を振っていたこと。それが怖くなります。

 とはいえ、指揮なんてすぐに取得できるようなものではないのです。最初からそうなのですから。今自分がすべきことは、とにかく、謙虚に自分の音楽を振り返り、そこに「本質」があるか、「意味」があるかをチェックしていくことです。ダメなら戻る、大丈夫なら進む・・・。ただ形だけを真似てはいないか?その動きの中に音楽があるか?そのために楽譜からできるだけ多くを読み取ろうとすること。楽譜を読むことに時間をかけること。・・・それをしなければ、どうもこの目の前に立ちはだかる「モーツァルト・幻想曲」を越えることはできなさそうです。もう一度、いろいろな意味で出直さなくては!!
(2003.4.9-記)

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14.分割法

 分割とは一つの拍を表裏二つに分ける方法です。曲中リタルダンドをはっきりと指示したいときなど用途は幅広いのですが、不用意に使うと煩雑(はんざつ)でかえって分かり難い指揮になってしまいます。

♪A分割

A分割

 この分割は表拍で停止した後、裏拍を跳ね上げによって表す方法です。裏拍の跳ね上げのスピードが次小節の頭の予備運動も兼ねるため、特にフレーズがリタルダンドしていった先、次の小節がまったく異なったテンポで開始される場合などに用います。図は四分の四拍子において4拍目を分割した場合ですが、A分割はこのようにその小節の最終拍における分割が主な用途といって良いでしょう。とりあえず形を頭に入れて置きましょう。

♪B分割

B分割

 A分割に対し、B分割は表拍を停止せず、点後の運動も付随します。同じ軌道を二度なぞるような形になります。描く軌道の延長ががA分割より長くなりますので、その分テンポも遅くなりますが、もたもたと描いていては、図の場合四分の四拍子が都合四分の五拍子と化してしまいますので、4拍目はなるべく軌道を短く、スピードも上げて描くようにしてください。また、ゆっくりとした四分の四拍子においては、すべての拍を分割することも珍しくありません。ちょっと複雑になってしまっていますが、このような感じになります(モーツァルト、交響曲第39番の第一楽章冒頭など)。

B分割/四分の四拍子

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