13.我が強敵、モーツァルト【レッスン後記③】

 今日でモーツァルトの幻想曲(K.475)のレッスンが2回目でした。前回割とすらすら行ったにもかかわらず、今回はダメ出しされてばかりで、全く進みませんでした。受験のために指揮法のレッスンをしばらくお休みした後の最初の課題がモーツァルトだったというのは、かなりきつかったのかも知れません。ただでさえモーツァルトは難しいのに、今の自分は頭の中がまだちゃんとした指揮モードになっていない感じで、指摘される注意などを頭で理解することすら時間がかかっているような感じです。

 まず注意されるのが、図形の大きさ、そして形のいびつさ。3月に大編成の吹奏楽を指揮したこともあって、純粋に自分の指揮の運動について細かく考えるクセが抜けているようです。「モーツァルトは端正に」と何度も何度も言われてしまいます。小さな動きで奏者に歌わせることのできる・・・。そんな理想とは裏腹に、動きが小さくなる→動かす距離が短くなる→その短い距離を緩やかに動くということに対して我慢しきれずに、あせったり、あるいはテンポを一定に保てなくなる……という悪循環で、とても歌わせるどころではありません。自分が感じている曲の流れと、自分の手の動き、手の先につながる棒の軌跡が一致せず、無駄に動いたり、また逆にテンポをただ刻むだけの無表情な指揮になってしまいます。音が少ないのみならず、休符が多い曲だけに、その「音が鳴っていない瞬間」をどう演奏するか、といったことも非常に重要なのですが、それも、頭で理解しながら手が言うことを聞きません。もう一呼吸待ってから次へと入りたいところを、一瞬棒が先に点を出してしまうのです。

 「意味なく棒を振り回しているのは指揮ではない」と、最後には静かに、しかししっかりと怒られてしまいました。その部分の伴奏がアルペジオなのか?刻みなのか?そういったことまで考慮して打点の重みを変化させ、打点から打点への移動経路を微妙に長く取ったり短くとったりして調節していくこと。そういう「意識的に、感じた音楽を自分の棒に乗せる」という変換作業を「無意識的に」行えるようになることが、指揮のレッスンを通して得ていくひとつの大きな技術なのではないかと思います。

 それはモーツァルトに限りません。自分の熱い思いをただ自分の中で燃焼させているだけでは何も残りません。炎というのは、手で触って形を確かめることができないもの。形の無い熱い炎を、凍てついた氷の中に瞬間冷却して封じ込め、形に残そうとすること。これが指揮者に課せられた最大の難問ではないでしょうか?それは物理的に無理なことでありながら、それに近い状態が現に存在することを、数は少ないけれども僕自身もいくつかの演奏会で経験しています。そこまでの道のりは長く長く長く・・・。まったく音楽というのは深いものです。

 今日のレッスン。終わったときにはあまりの悔しさに泣きそうでした。久々に指揮のレッスンに戻ってきてみて、自分の至らなさと先生の圧倒的な見本を前にしては、結局何を今まで習ってきたんだ、という自分への呵責ばかりで耐え切れないのです。また、先生の指揮をじっと見ていても、気付いたことが気付いたそばから自分の中に残ることなく消えていってしまうような感覚で、本当に胸が苦しかった。そればかりでなく、先日の演奏会でこんなに無知で指揮のなんたるかも分からない自分が70人編成の吹奏楽団を振っていたこと。それが怖くなります。

 とはいえ、指揮なんてすぐに取得できるようなものではないのです。最初からそうなのですから。今自分がすべきことは、とにかく、謙虚に自分の音楽を振り返り、そこに「本質」があるか、「意味」があるかをチェックしていくことです。ダメなら戻る、大丈夫なら進む・・・。ただ形だけを真似てはいないか?その動きの中に音楽があるか?そのために楽譜からできるだけ多くを読み取ろうとすること。楽譜を読むことに時間をかけること。・・・それをしなければ、どうもこの目の前に立ちはだかる「モーツァルト・幻想曲」を越えることはできなさそうです。もう一度、いろいろな意味で出直さなくては!!
(2003.4.9-記)

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