12.演奏会を開くということ【レッスン後記②】

 指揮法とは直接に関係がないのですが、ここでは演奏会を開くことについて僕の思うところを書いてみようと思います。演奏会とは、文字通り演奏する場であります。練習を重ねた成果を発表する場所です。しかし、演奏だけが演奏会ではないはずです。会場の雰囲気、音響、受付の対応、司会、アナウンス、演出・・・そういったことすべてが、演奏会全体の印象を決定付けます。逆に言えば、そういったところでも、演奏会を開く側は、お客さんに対して自分たちの思いを表現出来るのです。しかるに、そういったところで致命的なミスをしている楽団が少なくありません。何の脈絡のない選曲や不慣れな司会、中途半端な休憩時間などは、せっかく聴きに来てくれたお客さんに対して失礼なほどです。身内同士でほめあう馴れ合いの演奏会ならそれでもよかろうと思いますが、そういう演奏会は開くだけムダだと僕は思っています。せっかく大きなホールをそれなりの使用料金払って借りて、チラシを何枚も刷って宣伝をするわけですから、そこで来てくれたお客さんに、絶対に次回も来て貰えるようなセンスある素敵な演奏会をしようと努めなければなりません。それは、アマチュアだろうがプロだろうが、演奏会を催す者としての最低限の礼儀だと思うのです。

 プログラムについて考えてみましょう。大学の楽団にありがちなのは、いかにも「人気投票で決めました」といった選曲です。こういうものは、曲同士のつながりがまったくなく、演奏会全体を通して聴いた時の一種の「ストーリー」が何もありません。お遊びに付き合わされる観客は良い迷惑です。それでも演奏がよければまだ救われますが、そういうことは稀です。打楽器は叩きすぎて全体を壊すし、金管楽器はフォルテしか出来ない(ピアノの部分ではとたんに音を外したり雰囲気を壊すようなことをしでかす)。弦楽器は半分が弾けて居ないのではないか、というような散々な演奏会もありがちです。高校の吹奏楽になると、今度は「最近コンクールではやっている曲」が曲の構成を無視したカットでずたずたにされて演奏されたりします。一体なにを伝えたいのか?プログラムだけでうーん、と思ってしまう演奏会もたくさんあります。思うに、演奏がよければ良いんだ、という開き直った考えで演奏しても良い演奏にはならないのではないでしょうか。演奏会全体に、ピシッと一本、筋が通っていて、そういうことが演奏にも演出にも、ひいてはマネジメントにもよい影響を与えると思うのです。この筋が通っているか通っていないかは、たとえばプログラムを開いて、中の曲目紹介などを一読しただけで分かってしまうこともあります。

 確かに、そこまでの「筋」を通した演奏会をするのは並大抵なことではありません。準備段階から綿密な打ち合わせが必要でしょうし、「これはふさわしくない」と思ったら、勇気を持って切り捨てる覚悟も必要でしょう。特に選曲に関しては、この曲が「やりたい」「やりたくない」という感情論も入ってきて大変だと思います。そういったすべてのことを秩序立てて解決していく責任の一切は、そのステージを指揮する指揮者にあると僕は考えています。プロではない、いや、逆にアマチュアだからこそ、演奏会をどういうものにしたいのか、という明確な方向性を演奏者全体に示し、安易な妥協を避けて、「どうしてそういうものにしたいか」を説明し続ける義務が、指揮者にはあるはずです。演奏面だけでなく、すべてにおいて指揮者は番人であるべきだ、ということ。これは、なかなか辛いことですが、そういう姿勢を貫くことによって、奏者に演奏会に対するポリシーのようなものが浸透すれば良いなあ、と、思うのです。また、そういうことがどうしてもその楽団で実現できないのならば、指揮者はその楽団から身を引くべきでしょう。

 かなり偉そうなことを書きましたが、以上偽らざる僕自身の考えです。「自己満足で良いじゃん」とは言いますが、他者を満足させようと努めなければ、自己満足にも到達しないでしょう。演奏の技術的な問題で、どうしてもアマチュアはハンディを負っています。それは仕方がないこととして、ではその部分を精神的に乗り越えようとしなければ、感動は生まれないでしょう。「感動させてやろう」というような押し付けがましい演奏に陥ってはいけませんが、センスの良い演奏会、配慮が行き届いた演奏会、そういう演奏会を続ければ必ずファンが増えていくはずです。演奏会を開いても来るのは身内ばかりで・・・というのでは、やはり寂しいものです。もっと開かれた、より多くの人と音楽を共有する場としての演奏会が出来たら、それこそ文字通り感激してしまうことでしょう。大事なのは、そのために手を抜いてはいけない、ということ。そして指揮者は演奏以上に演奏会全体の責任者である、ということです。
(2003.3.6-記)

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